忘却魔法は魔女には不要!

2024年10月30日

大魔女はブンむくれていた。
仕事机デスクに山と積まれた書類を前に、もうすっかりお冠だった。
ソラムが務める弦楽器工房から王城に帰って来た彼女は、オスカーに執務室へと放り込まれたのだ。
側に寡黙な大臣が控えているお陰で逃げ出す隙などまるでない。昨日から滞っていた女王のお仕事に、精を出すより仕方がなかった。
(覚えてなさいよ、泥付ゴボウ!)
難しい書類に目を通しつつ、心中密かに夫を呪う。
「泥付ゴボウ」はオスカーのあだ名。
憎まれ口を叩く時等でよく使う、子供の頃の呼び名だった。
「これで終りね。付き合わせてゴメンナサイ。」
最後の書類に手早く署名したのは、真夜中に近い時刻だった。
大魔女はようやく席を立ち、ずっと付き合ってくれていた寡黙な大臣に声を掛ける。
「明日の朝はゆっくりしてね。
お昼からの出勤でも大丈夫よ。・・・お休みなさい。」
無言で一礼する大臣に見送られ、大魔女は執務室を後にした。

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自室へ続く長い回廊は王城の中庭に面している。
木々の緑が月光を受け、銀に輝き美しい。
(上弦の月ね。綺麗だわ。)
月を見上げて立ち止まる。
夜風が冷たく心地良い。大魔女は暫し物思いにふけった。

(昨日から続くこの異変・・・。
原因はおそらく お父様 だわ。彼を探ろうとするのを良しとしない者がいる。
どこのどいつか知らないけど、どういうつもりかしら?
夫の記憶を消す 忘却魔法 だなんて!)

考え込む時の癖が出た。
大魔女は回廊の端から端まで、何度もウロウロ行き来した。

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忘却魔法はその名の通り、人の記憶を消し去る魔法。
主に医療分野で使用されている。例えば、心の傷を癒やす時。
正気を保っていられないほど凄惨な体験をした者に、慈悲をもって施される最後の手段の一つである。
悪用されることはほとんど無い。なぜならとても難しい魔法だから。
記憶は人の心と魂に刻まれるもの。そこに干渉する忘却魔法は非常に複雑で、かなり高位の魔女・魔道士にしか使いこなせない魔法だった。

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(お姉様や妹達だけじゃないわね。
お母様も「忘却」を掛けられているんだわ。もう何年も前から、ずっと!)

眉を潜めて立ち止まる。
脳裏に浮ぶたのは、あの人騒がせな母親の顔。
「父親なんて居たかしら?」
そう言って首を傾げた、先の大魔女のその人だった。

(そうよ、お母様は腐っても魔女!
ぶっ飛んじゃってるご性格はともかく、大魔女と名乗るに相応しいとても優れた魔女だったのよ?
自分を狙う悪い魔法は容易く跳ね返す事ができたはず。
なのに、どうして・・・。まさか・・・!?)

回廊の途中で足を止める。
思い至ったその推測に、背筋がすぅっと冷たくなった。

(お母様は 自ら進んで 忘却魔法に掛かった?
もしかしたら、お父様も・・・?)

無論、これは仮説に過ぎない。
しかし、もし正しければ更に恐ろしい仮説が成り立つ。
一国を護る大魔女夫妻が、忘却魔法に甘んじて掛かる。そうせざるを得なかった、深刻な 事情 があるのだとしたら・・・。

(・・・早計ね。)
大魔女は小さく首を振る。
そして踵を返して歩き始めた。今日はもう休んだ方がいい。昨日からの騒ぎのお陰で、心身ともにクタクタだった。
回廊を抜け、自室の前まで辿り着く。
扉を開けて中に入る。広い居間は薄暗く、女官達はもう引き上げていて誰もいない。
(まだ何もわかってない内から、あれこれ推測するものじゃないわ。
でも早急に対策を打つ必要がある。
先ずは他国に嫁いだ妹達に連絡を取って聞いてみないと。何が異常が起きてるかもしれない。
あの娘達がお母様のようになってなきゃいいんだけど・・・。 っ!!?)
不意に、ある事に気がついた。
大魔女は居間を横切る足を止める。

( まさか、わ た し も ・・・? )

血が凍る思いがした。
足下の床が脆くも崩れ、奈落の底に落ちていく。
そんな錯覚に身震いし、自分自身を抱きしめた。
かつて味わった事の無い 凄絶な恐怖 !
耐える事など到底できない。大魔女は思わず絶叫した!

「 泥付ゴボウ・・・!
  オ  ス  カ  ー !!! 」

静まり返ったリビングに、悲痛な叫びが響き渡った!

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「ぅわ?! なんだなんだ!??」
浴室に通じる扉が開き、オスカーが慌てて飛び出してきた。
入浴を終えた所だったらしい。髪は濡れそぼり上半身は裸、夜着のズボンを履いてはいるが、両足は裸足のままだった。
「どうした?!何かあったのか!?」
血相を変えて駆け寄る夫に、戦き震える大魔女は我を忘れてすがりついた!

「どうしよう、どうしようオスカー!
私、貴方の事忘れちゃう!
嫌よ、そんなの耐えられない!
貴方を忘れるなんて絶対イヤ!!!」

もし自分が母親のように、夫の事を忘れたら?
世界で一番大事な人を、突然忘れさせられてしまったら・・・?!
考えただけでゾッとする。
安心できる何かを求め、大魔女は狂おしく身悶えた。

「何とかしなきゃ、早く何とか手を打たなきゃ!
ねぇ、考えて! 私、どうしたらいい?!
忘れたくない、忘れたくないわ!
私いったい、どうしたらいい!??」

忘却をもたらす謎の敵。
その正体は全く不明。気付かぬ内に掛けられる忘却魔法を防ぐ手段も今はない。
とにかくそれが恐ろしい。
見えない恐怖から逃れたくて、死に物狂いで叫び続けた。

「ミシュリー! ミシュリー、ミシュリー!
しっかりしろ! 俺を見るんだ、ミシュリー!!!」

強い力で肩を掴まれ、激しくガクガク揺すられた。
お陰で我に返る事ができた。
固く閉じていた目を見開いて、真正面から自分を見返す夫の顔を凝視する。
心配そうな眼差しに、心の嵐が凪でいく。
「・・・よし。ちょっと落ち着いたな。」
大魔女はそっと抱き上げられて、近くの寝椅子に運ばれた。

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楽な姿勢で寝椅子に座らされても、震えがなかなか止まらない。
すぐ隣にオスカーが腰掛け、優しく肩を抱いてくれた。
大きな手から伝わる温もりに、早鐘打っていた心臓が次第に落ち着きを取り戻す。
呼吸も楽になってきた。強ばっていた身体から力が抜けて、ようやく震えが治まった。

「さて、何があったか聞かせてくれ。」

優しい声に泣きそうになった。
こんなに錯乱してしまうほど、夫に弱さ・脆さを曝け出した自分自身に驚きながら。
「・・・お姉様まで、忘れてたわ・・・。」
大魔女は小さく呟いた。
「やっぱりか。
俺もそれを心配してロイドの店を訪ねたんだ。
あの義姉さんまで旦那の事を忘れちまうとはなぁ。」
4番目ララ5番目ルルもお姉様も、気付かない内に忘れさせられていたわ。
忘却魔法よ。顔を合わせただけで解けたのは、お父様を探らせまいとする私達への脅し。単なる威嚇だったからだと思う。
でもお母様は、もう思い出さないかも知れない。
18年間、ただの一度も思い出さなかったんだもの。」
「悪質だな。
そんな非道い魔法なんかに、あのお袋さんが容易く掛るワケないんだが。」
「それは、私も考えたんだけど・・・。」
呪いを甘受したという推測を、ここでは口にしなかった。
今はただ、夫に側に居て欲しい。
決して忘れたりしないように、しっかり抱いていて欲しかった。

「・・・なるほど。
それであんなに恐がってたのか。」

事情を察したオスカーが、何故か嬉しそうにニンマリ笑う。
急に恥ずかしくなった大魔女は、目を泳がせて俯いた。
「ごめんなさい。取り乱して・・・。」
「謝る事はないさ。俺を想っての錯乱だ。
『貴方を忘れるなんて絶対イヤ!』。
この台詞、一生忘れないぜ? 俺は♡」
「茶化さないでよ、もぉ!」
睨んでやろうと思って見上げたが、夫の顔を一目見るなり可笑しくなって吹き出した。
オスカーは、笑っていた。
いつもと同じ陽気な笑顔に、不安も恐怖も吹き飛んだ。
同時に 迷い も消え去った。見えない敵と戦う逡巡。そんな弱気はもはや無い。
代わりに胸に沸き起こってきたのは、いかにも自分らしい強気な 闘志 !
その想いが伝わったらしい。
オスカーが再び顔を覗き込んできた。

「敵さん、かなり強敵だぞ?」
「そうね。」
「きっと一筋縄じゃいかない奴だ。」
「同感だわ。」
「今の所打つ手は無い。負けを認めて放っとくか?」
「嫌よ!」
「ならどうする?お前なら。」
「倒すわ、もちろんよ!」

夫を見つめる大魔女の目。
挑むような鋭いその目は、いつもの彼女の眼差しだった。

「私の家族を呪ったのよ? タダで済むわけ無いでしょ!
どこに居ようが必ず見つけ出して、コテンパンに締め上げてやるわ!!!」

「それでこそミシュリー。
我らが偉大なる 大魔女様 だ!」
オスカーが満足そうにうなづいた。
そんな夫に感謝を込めて、大魔女は彼を抱きしめる。
抱きしめ返してくれる幸せを噛み締め、そっと静かに目を閉じた。
夜は長いようで短い。
2人は朝が来るまでのわずかな時間を、心ゆくまで楽しんで・・・。

「 待って!
そうよ、あの 呪文 があるわ!!!」

突然脳裏に閃いた、起死回生の撃退法。
唇を寄せてくる夫の顔を手で遮ると、大魔女は勢いよく立ち上がった!

「『家族を呪う』で思い出した!
忘却魔法から家族を守る方法があるわ!
オスカー、お願い一緒に来て!」
「・・・やれやれ、またお預けか。
ちっともジッとしてない奴だな、お前は。」
「そっ、それはまた今度、ゆっくりと!
いいから来て! 貴方の手助けが必要なの!」
「そう言われちゃ断れないな。
でもこんな夜更けにどこ行く気だ?」

夫の疑問に答えるより早く、大魔女はもう歩き出していた。

「 王城の図書館 よ!
そこにどんな魔法も弾き返せる 最強防御の魔法 があるの!」

金のローブを翻し、颯爽と歩く彼女は意気昂然と笑っていた。

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