第8章 水の都ティリッヒの陰謀
1.デライラ
厳選したマメを手挽きしてネル・ドリップする。
サーバーからマグカップに注がれたコーヒーの香りは芳ばしい。飲み物なら酒、アルコール度数が高けりゃ味は2の次と常々豪語するマックスでさえ、恍惚とする素晴らしさだった。
「ここはどっかのスタンドカフェかよ?」
「そんな感じですよね。」
局長室のソファに座るマックスの呆れたような口調に、モカは苦笑し頷いた。
そう言われても仕方がない。局長室のキャビネットには、コーヒーを飲むための道具が所狭しと並べられている。ポットやドリッパーはもちろんの事、サイフォン、フレンチプレス、エアロプレス。ダッチコーヒー用の水出し器まであるのだから、マックスが呆れ返るのも無理はなかった。
モカは大きなマグカップにコーヒーを注ぎ、テーブルの上にそっと置いた。
そのテーブルに足を投げ出し読書に勤しむ局長・リュイが、マグカップに手を伸ばす。どうやら「合格」のようである。淹れ方が悪いと一口たりとも飲んでもらえない。この男のコーヒー狂いも正直困ったものだった。
「ありがとよ。」
傍若無人な上官と違い、部下は礼儀をわきまえている。マグカップを差し出すと、マックスはキチンと礼を言ってくれた。
彼が眺めるタブレット端末には、次のミッションの内容が表示されている。
(・・・わぁ、ハード!)
側からコッソリ覗き見たモカは、一抹の不安を覚えた。
「こいつぁまた面倒だな。
しかも ティリッヒ か。厄介な場所だぜ。」
マックスも眉をしかめた。
ティリッヒとは、地球と火星の中間地点にある惑星型コロニー。惑星のように太陽を公転するタイプの人口建造基コロニーで、立派な独立国家である。
(カルメンさんの故郷・・・。)
備え付けの流し台でサーバーを洗っていたモカは、手を止めリュイ達の方へ振り向いた。
「俺が指揮とるか?」
「いや、指揮官はカルメンだ。」
「カルメンに? おい、諜報部隊のガキ共だけでやらせる気か?」
「『別口』が入っている。」
リュイの返答は短かったが、これだけで事情が察せられた。エメルヒが傭兵部隊に別のミッションを押しつけてきたのだ。
先日の騒動、リーベンゾル・タークの奇襲でエメルヒがいるエベルナ統括司令基地は甚大な被害を被った。
何とか被害額分を取り戻そうとしているらしく、舞い込む依頼を形振り構わず全て引受けているという。それでリュイが率いる13支局隊にも無茶ぶりしてきたと思われる。
ティリッヒでのミッションよりもさらにハードにちがいない。マックスが忌々しげに悪態ついた。
「あのクソったれのやりそうなこったぜ! わかった。準備させよう。MCは?」
「2A(地球連邦政府からの依頼で少し複雑・もしくは諜報対象が複数ある事案)だ。」
「2A?」
マックスは少し眉をつり上げた。しかし異論は唱えない。
リュイの決定は絶対である。実際「少し複雑」どころではない 厄介な案件だとしても。
(大丈夫かな? 何か考えがあるんだろうけど・・・。)
そう思いつつ、モカはマホガニー製のデスクの上で本に埋もれる置き時計に目を走らせた。
日付が代ろうとしている。
リュイとマックス、2人は明日からのミッションについてまだ話し合う事がたくさんある。自分は退出した方いいだろう。
「あの、失礼します。」
小声で言って出入口へ向かい、ドアノブに手を掛けた時だった。
「 デライラ 。」
その「名前」に心臓が飛び跳ね、体が冷えて強張った。
「・・・お前か?」
読んでいる本に目を落としたまま、リュイが静かに聞いてきた。
モカは必死で感情を押し殺し、何とか平静を装った。
「・・・いいえ・・・。
・・・ 母 の 名前 、です ・・・。」
やっと絞り出した声は、悲しくなるほど掠れていた。
震え出す手で扉を開けて局長室から逃げ出した。
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本のページをめくるリュイの手がほんの一瞬だけ止まる。
動揺しているように見えた。しかしマックスはそれには触れず、窓の外へと目を向けた。
「そいつぁ、今聞く事だったのか?」
「うっとおしい。」
「そうか。懲罰は?」
「減俸。」
「了解。」
マックスはソファから立ち上がり、大きな声を張り上げた。
「聞いたか お前ら?! 次のミッションはただ働きだ、わかったな!?」
ガタン!
ガンガラガラン!
窓の外で音がした。
慌てて逃げ出したのだろう。窓下に放棄してあった油缶や朽ちた木箱、それらのガラクタに足を取られた 半人前諜報員 の顔が目に浮かぶ。
リュイが露骨に顔を顰める。
「撤収が見苦しい。ガキの方にゃ便所掃除もやらせとけ。」
「了解。」
マックスはこみ上げる笑いをかみ殺した。
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勝手口から建屋に入った。
火星の夜風はタチが悪い。台風並みの強風で小石がビシバシぶっ飛んでくる。
痛い上に砂まみれである。 ナム は体中をバタバタ叩いた。
(うっとおしいから聞かせてやったってトコか。ったく性格悪ぃ!)
腹は立ったが収穫はあった。あのエベルナの採掘場跡で、リーベンゾル・タークが叫んだ 名前 。その謎が 今 解けた。
『・・・ 母 の 名前 、です ・・・。』
そう呟いた時の声はとても哀しそうだった。外から窺い知れなかったが、きっとモカは泣きそうだったに違いない。
(また哀しませやがって!あの冷血暴君、いつか絶対ぶん殴ってやる!!!)
拳握りしめる半人前の諜報員は まったく気付いてないようだった。
次にミッションで ただ働き が決定したのは、自分だけではない事に。
(・・・寒っっっ!!!)
夜の火星の気温は低い。氷点下など当たり前だし、風が強いと体感温度もグッと下がる。
これ以上は堪えられない。自分の体を抱くようにして、ナムは自室に引き上げた。
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( ・・・母親、ねぇ。
だとしたら、モカはよっぽど 母親似 なんだろうね。)
もう一人の ただ働き決定者 は、局長室を出てすぐの廊下にいた。
アイザック である。暗い廊下の死角に潜み、局長室で交される会話にずっと耳を傾けていた。
( あのタークって野郎、父親の寵姫に横恋慕でもしてたんだろうね。
それでエベルナでの大暴走の説明が付く。恋焦がれた女と似た娘を見て発狂したってトコか。やれやれ、迷惑な話だねぇ・・・。)
局長室から出てきたモカが 暗い面持ちで去って行く。
そんな少女の後ろ姿を 憐憫の目 で見送った。
( 不憫な娘だ。この先、あの娘の人生はとても 難しいもの になるだろう。
タークは諦めないだろうし、地球連邦政府もあの娘の存在を危険視する。リーベンゾルがらみで幾つかある過激な武装組織の連中もきっと黙っちゃいないだろうね。あの娘は太陽系中から 生死を問わず 狙われる。
特に 禿ネズミ が厄介だね。とっ捕まったらお終いだ。とことん利用された挙げ句、高値で売り飛ばされちまう。
地球連邦 か リーベンゾルか、たとえどっちに売られても 長 く 生 き て い ら れ な い 。でも・・・。)
アイザックはズボンのポケットにしまってあった ワイヤレスイヤホンを耳に当てた。
( 悪いね。こっちも「仕事」なんだ。
この先、あの化け物がどうやってあの娘を守って行くかが かなり面白い 見物 だな。)
イヤホンから らぶみょん20 の新曲「染色体まで愛してる♡」のイントロが流れ始めた。
それに合わせてスキップしながら、アイザックは自室へ戻っていった。